日記

ダウン症児の育児。日々の雑感です。

20年

阪神淡路大震災から20年。もうそんなに経ったんだ。
あの時の私の記憶を書きとめておく。

震源地から遠く離れた大学に通っていた私は、大学の試験の休憩中などに、地震のうわさをちらほらと聞きながら、夜のニュースを見て愕然としたことを覚えている。その後サークルのみんなで募金を集めて、震災から2週間後に友人2人でボランティアへ。
神戸には1週間程度しかいなかったが、地震のすさまじさと自分の無力さを痛感。
着いた当日に神戸市のボランティア受付センターに行って支援物資を盗難から監視するとのことで、支援物資の前に車中泊をしながら車で倉庫の前に駐車し、翌日から須磨区の小学校(中学校?だったかな)に行くよう指示され二人で赴いた。
とはいえ、正直何かできるわけでもなく、体育館にひしめく被災者に圧倒され、支援物資搬入の手伝い程度のことしかできなかった。
夜校庭で被災者と一緒に焚き火にあたりながら、「何にも役に立ちませんです。」とボソッとこぼすと「来てくれただけでうれしいんやで。」とおばさんに返されて、思わず涙がこぼれた。
その後、その避難所担当?の神戸市職員のおじさんと仲良くなったが、だだの大学生ボランティアにやたら気を使うのが気持ち悪かったことを覚えている。おじさんたちは、遠くから来た若者に対して気を使ってやっていたつもりだったのだろうが。気を使うところの違いに本人は気づいていないようであった。決定的だったのは、体育館で被災者がひしめく中、なぜかわれわれ2人ともう一人の女性ボランティアたちで、被災者のいない校舎の方で、鍋をごちそうになったこと。職員の自宅は震災で無害だったらしく自宅から材料等を持ってきたらしい。どういう神経してるんだ?と思いながら、罪悪感にさいなまれつつ鍋を食べてしまった。
そんなこんなで3,4日過ごしていたが、よく被災者とその職員はいろいろなことで衝突していた。日本人がしばらく経験していない未曾有の災害だったからなのか、その職員の資質の問題なのか、問題の詳細は確認できなかったので今は分からない。
その後友人と話をして、持参した食料もつきかけていたので、被災地を後にすることにした。
誰が撮影しようと言いだしたが覚えていないが、被災地を出発しようとしている際に撮影した写真が今も1枚残っている。そこには無表情な我々2人とにこやかな笑みを浮かべた神戸市職員が写っている。

その後就職した私は、震災から4年後縁あって神戸市近郊で勤務することになった。職場のビルは震災の影響で柱や天井等いたるところにヒビが入っていたが、見た目の町はかなり復興してきていた。ルミナリエには1度行ってみた。震災から続くイベントで、広島でいう灯篭流しみたいな感じになるのな。

3年間神戸近郊で勤務し、その後神戸には現在にいたるまで、2回程度通りすぎるぐらいである。昔には戻れないだろうが、前に向かってみんな進んでいるのだろう。

以上が私の経験?した阪神淡路大震災の記憶。