日記

ダウン症児の育児。日々の雑感です。

普通

1年以上ブログ放置していた。
久しぶりに自分のブログを読み返してみた。そうだったなあ。いろんなこと考えてたなあと、自分が書いたものながら、思わず涙する場面もあった。

多忙な日常に流されつつも平凡な日常が過ぎている。普通といっても3歳になってもあ〜。う〜。はい!などしか発しない。
しかし意思表示ははっきりしている。お茶を飲みたきゃ親の手を引っ張って台所までつれて行き、うーうー言うし、怒ると顔をくしゃくしゃにして泣くし、笑えば、一緒に笑う。障害のない子をもつ親からみると違和感しか感じられない、”普通”の生活をしている。

ダウン症児の親だからと頭の中で90%ぐらい占めていた以前のようなことはない。ショッピングセンターで普通に手をつないで歩いたところで、周りの視線を意識することもなくなった。
以前はすれちがう人の視線をチェックして、うちの子みてるかな?とすれ違うたびに気にしていた。
気にするのに疲れたというか、めんどくさくなったというか、まあ私自身が生きていく上で麻痺してきた感覚の一つだろう。

チビは3歳になり、来年から幼稚園に入ることになった。
療育センターからは、そういう子たちの集まる子供の幼稚園を勧められ、妻はお兄ちゃんが通っていた幼稚園を希望。
後者の幼稚園が受け入れてくれるかどうか不安だったが、受け入れてくれるとのこと。
まあ、一緒にできるのも幼稚園までだろう。幼稚園さんが良いというのならお願いすることとした。
4月から社会生活デビュー。どうなることやら。

生まれてきて良かった。

最近この言葉がよく耳に引っかかる。この言葉に無言の圧力を感じるからだろうか。
この言葉は、当事者でない第三者(マスコミ等)には無難な言葉として使える。また、実際さまざまな艱難辛苦を乗り越えて人生を過ごしてきた当事者ご家族にとっては、本当に実感として出てくる言葉なのかもしれない。

しかし、私のようにこれからどうなるんだろうなとぼんやりとした不安を抱いている人間にとっては、世間一般として持つべき考え方は、”生まれてきて良かった”と考えることなんだよと無言のプレッシャーを受けているように感じる人も多いのではないだろうか。

実際の当事者ご家族にとっても、ダウン症の子供を授かって育ててきた人生しか経験していないわけであり、そういう子供を授かった自分自身の人生を、ずっと否定し続けて生きていくことは誰だってできない。そんな自己否定ばかりしていると親自身が自殺しかねない。ダウン症児を育てていくために、降りかかる現実に右往左往しながら、悩み対応していく日々がいつしか親自身の人生となっていく。

通常の子育てでは出会えないような人に会えた。それも事実だろう。しかし通常の子育てで出会う可能性があった人に出会えなかったことも事実だろう。
この子のおかげで家族の結束が強まった。健常児の兄弟姉妹が思いやりの気持ちを持った子供育った。彼(彼女)がいたから頑張れた。もちろんあるだろう。
しかし、親は期待していないとはいいつつ、健常児の兄弟姉妹は敏感に自身の役割を感じ取る。どこかで自身の行動や将来の職業選択に影響を受けてしまうこともあるかもしれない。また心理的に枠をはめてしまうこともあるかもしれない。それが悪いとはいえない。親も子供も力を集中して本来の自身の力以上のものが出せる場合があるかもしれない。
つまり良かった良くなかったではなく、そういう子供がいた人生と、いなかった人生、大きくみれば2つあった道のうちの一つを歩んできた人生。多くの人が歩まないだろう人生を経験してきました。でもそういう人生も悲観するほどの人生じゃないんだよ。ということが伝わればいいのになと思う。

大前提として、病気も染色体異常もない健康な子供が生まれることを親はみな望んでいる。
元気な子供が生まれた時”良かった”とどんなでも親は心から言える。”ダウン症でも生まれてきて良かった””ダウン症で良かった”と一足で飛んでしまう言葉は、やはり説明不足で、第三者にとっても、どこかより別世界の感覚というイメージを強めてしまう気がする。

しかし、マスコミ媒体で、このようなことはなかなか言えないし、どうしても素直な感情はおきざりで、あるべき論で語られることになる。ダウン症の子供を持つ親でさえ、公の場では正直な感情は表現しにくくなっている。そういう意味ではちょっと息苦しいところはあるな。

ようやく

ついブログから遠ざかっていたが、最近のことを記録しておく。
GWも明け、いつもの仕事が始まった。我が家のチビちゃんはもうすぐ2才になり、最近ようやく家の中で歩き始めた。しかし靴を履くとどうも違和感があるらしく、靴を脱ごうとして外ではあまり歩こうとしない。通常は1年程度なんだろうが、妻も2歳近くになるまで、外に連れ出す時のだっこひもは相当大変そうである。肩もみをしてやるとなかなかガチガチ。

療育センターも歩きだしたら、ぼちぼち一段落らしい。これから幼稚園に入る2年近く家に置いておいても、アレなので、不定期でデイサービスに今度から通うことになった。妻いわく、こんな小さい子を預かるのも向こうも初めてなので、お互い手さぐりって感じらしい。

いつになったら人見知りをするのか分からんが、とにかく愛想を振りまきまくる。最近は若い女性が相手にしてくれないのを学習したようで、おばちゃんに愛想を振りまきまくっている。
相手をしてくれるおばちゃんに、バレるんじゃないかな?とまだ対応にも躊躇してしまうが、チビちゃん本人の本能のままの行動は、私の心のハードルのはるか上にある。
追いつけるかなー。

転勤

さて、転勤となり4月から新たな地で働くこととなった。今の職場よりは家に近いところになるので、週末家に帰るのは少し楽になる。しかし仕事に追われて、引っ越し準備は一向に進まない。

基本これまでも2週間に1回程度は家に帰っていたが、子供との時間を取り戻すように休みは特に上の子と遊びまくっている。幼稚園児であるが、ゆっくりと分かることばで話したらどんどん理解をしていく吸収力には本当にびっくりする。ええかげんなことは言えんな〜。
ちなみにチビちゃんの療育センター通いは、体操の病院に行くといったら理解してくれた。
チビちゃんはちょっと兄ちゃんより大きくなるのが遅いのさ。と言ったら分かったような分かって無いような感じであったが。

アピール

自然にふるまう難しさ。イスラム国の人質事件。政府は夜通し・・・。・・・について徹夜で対応しました。などなど。安倍さんのPRが裏目に出た後ろめたさが、そうアピールさせるのかしら。妙にアピール臭さが鼻につく。
今は状況を逐一伝えるの報道が占めているが、一段落した際、果たして安倍さんの言動について検証されることがあるのだろうか。

マスコミさんも次のネタを提供されて、そっちに流れてハイおしまい。ってことになりそう。

認定

先週療育手帳に該当するかどうかの診断を受けてきたようだ。どうやら該当とのこと。まあ分かっていたことであるが、医師とはいえ第三者に告げられると「そうなのね」という気になるな。

20年

阪神淡路大震災から20年。もうそんなに経ったんだ。
あの時の私の記憶を書きとめておく。

震源地から遠く離れた大学に通っていた私は、大学の試験の休憩中などに、地震のうわさをちらほらと聞きながら、夜のニュースを見て愕然としたことを覚えている。その後サークルのみんなで募金を集めて、震災から2週間後に友人2人でボランティアへ。
神戸には1週間程度しかいなかったが、地震のすさまじさと自分の無力さを痛感。
着いた当日に神戸市のボランティア受付センターに行って支援物資を盗難から監視するとのことで、支援物資の前に車中泊をしながら車で倉庫の前に駐車し、翌日から須磨区の小学校(中学校?だったかな)に行くよう指示され二人で赴いた。
とはいえ、正直何かできるわけでもなく、体育館にひしめく被災者に圧倒され、支援物資搬入の手伝い程度のことしかできなかった。
夜校庭で被災者と一緒に焚き火にあたりながら、「何にも役に立ちませんです。」とボソッとこぼすと「来てくれただけでうれしいんやで。」とおばさんに返されて、思わず涙がこぼれた。
その後、その避難所担当?の神戸市職員のおじさんと仲良くなったが、だだの大学生ボランティアにやたら気を使うのが気持ち悪かったことを覚えている。おじさんたちは、遠くから来た若者に対して気を使ってやっていたつもりだったのだろうが。気を使うところの違いに本人は気づいていないようであった。決定的だったのは、体育館で被災者がひしめく中、なぜかわれわれ2人ともう一人の女性ボランティアたちで、被災者のいない校舎の方で、鍋をごちそうになったこと。職員の自宅は震災で無害だったらしく自宅から材料等を持ってきたらしい。どういう神経してるんだ?と思いながら、罪悪感にさいなまれつつ鍋を食べてしまった。
そんなこんなで3,4日過ごしていたが、よく被災者とその職員はいろいろなことで衝突していた。日本人がしばらく経験していない未曾有の災害だったからなのか、その職員の資質の問題なのか、問題の詳細は確認できなかったので今は分からない。
その後友人と話をして、持参した食料もつきかけていたので、被災地を後にすることにした。
誰が撮影しようと言いだしたが覚えていないが、被災地を出発しようとしている際に撮影した写真が今も1枚残っている。そこには無表情な我々2人とにこやかな笑みを浮かべた神戸市職員が写っている。

その後就職した私は、震災から4年後縁あって神戸市近郊で勤務することになった。職場のビルは震災の影響で柱や天井等いたるところにヒビが入っていたが、見た目の町はかなり復興してきていた。ルミナリエには1度行ってみた。震災から続くイベントで、広島でいう灯篭流しみたいな感じになるのな。

3年間神戸近郊で勤務し、その後神戸には現在にいたるまで、2回程度通りすぎるぐらいである。昔には戻れないだろうが、前に向かってみんな進んでいるのだろう。

以上が私の経験?した阪神淡路大震災の記憶。