日記

ダウン症児の育児。日々の雑感です。

生まれてきて良かった。

最近この言葉がよく耳に引っかかる。この言葉に無言の圧力を感じるからだろうか。
この言葉は、当事者でない第三者(マスコミ等)には無難な言葉として使える。また、実際さまざまな艱難辛苦を乗り越えて人生を過ごしてきた当事者ご家族にとっては、本当に実感として出てくる言葉なのかもしれない。

しかし、私のようにこれからどうなるんだろうなとぼんやりとした不安を抱いている人間にとっては、世間一般として持つべき考え方は、”生まれてきて良かった”と考えることなんだよと無言のプレッシャーを受けているように感じる人も多いのではないだろうか。

実際の当事者ご家族にとっても、ダウン症の子供を授かって育ててきた人生しか経験していないわけであり、そういう子供を授かった自分自身の人生を、ずっと否定し続けて生きていくことは誰だってできない。そんな自己否定ばかりしていると親自身が自殺しかねない。ダウン症児を育てていくために、降りかかる現実に右往左往しながら、悩み対応していく日々がいつしか親自身の人生となっていく。

通常の子育てでは出会えないような人に会えた。それも事実だろう。しかし通常の子育てで出会う可能性があった人に出会えなかったことも事実だろう。
この子のおかげで家族の結束が強まった。健常児の兄弟姉妹が思いやりの気持ちを持った子供育った。彼(彼女)がいたから頑張れた。もちろんあるだろう。
しかし、親は期待していないとはいいつつ、健常児の兄弟姉妹は敏感に自身の役割を感じ取る。どこかで自身の行動や将来の職業選択に影響を受けてしまうこともあるかもしれない。また心理的に枠をはめてしまうこともあるかもしれない。それが悪いとはいえない。親も子供も力を集中して本来の自身の力以上のものが出せる場合があるかもしれない。
つまり良かった良くなかったではなく、そういう子供がいた人生と、いなかった人生、大きくみれば2つあった道のうちの一つを歩んできた人生。多くの人が歩まないだろう人生を経験してきました。でもそういう人生も悲観するほどの人生じゃないんだよ。ということが伝わればいいのになと思う。

大前提として、病気も染色体異常もない健康な子供が生まれることを親はみな望んでいる。
元気な子供が生まれた時”良かった”とどんなでも親は心から言える。”ダウン症でも生まれてきて良かった””ダウン症で良かった”と一足で飛んでしまう言葉は、やはり説明不足で、第三者にとっても、どこかより別世界の感覚というイメージを強めてしまう気がする。

しかし、マスコミ媒体で、このようなことはなかなか言えないし、どうしても素直な感情はおきざりで、あるべき論で語られることになる。ダウン症の子供を持つ親でさえ、公の場では正直な感情は表現しにくくなっている。そういう意味ではちょっと息苦しいところはあるな。